先日、久しぶりに会う親友を迎えに成田空港に行きました。彼女はラトビア系オーストラリア人。故郷であり家族の住むラトビアからオーストラリアに帰る途中、飛行機の乗り換えで日本に一日だけ滞在したのでした。
彼女と私が出会ったのは11年前のオーストラリア。私が在籍していた英語のクラスに彼女が入ってきたのでした。
場違いなところに来たものだとばかりの表情で辺りを見回していた彼女に、私が空いている隣の席を勧めたのが出会いでした。
普段出会うことのない遠い国からやってきた私たちは、その時からなぜかすぐに気持ちが溶け合って、たどたどしい英語を介してさまざまな喜びや感動や笑い、悲しみを共有しました。彼女は美しい自然を切り取ることのできる画家で、森の妖精のような人でした(かわいいお孫ちゃんもいるおばあさんですが、そうは見えません)周りで見ていた友人は後に、私たちがどうやってその下手な英語で気持ちを伝え合っているのか、不思議に思っていたそうです。
そう、気が合うという事の前に言葉の壁は障害にはなりません。それは不思議にいつでもそうです。私たちは自分と相手との共鳴を大切にし、気持ちが溶け合い、共にいることを喜び合います。ところが、仕事の局面、とりわけ国と国との折衝などの際には、的確な言葉を選び、ニュアンスを正しく伝え、双方の立場の違いをはっきりとさせることがとても大切にされます。そこでは双方の多角的な利害関係が複雑に絡み、頭が忙しいために、気持ちが通い合うまでに多くの障壁を経なくてはらないでしょう。
私は鍼灸の治療においてもまた、気が合うということがとても大切な要素であると感じています。通常で言う「気が合う」とは使い方が少し違い「気が通じ合う」という意味合いでしょうか。治療をする側と受ける側の心が通じ、気持ちが合うこと。もっと言えばその場を共有することの有り難さを感じる中で、癒やしは起き、深まっていきます。あるとき、末期がんで、鍼をすることも難しい痛みを抱えている友人を前にして、どのような治療が可能だろうと手が止まったとき、鍼と手を当てるだけで確実に気が流れ、彼女が楽になっていくのを感じました。その時、治療する側とされる側の境目はなくなりました。それは私たちの存在そのものの本質として、命がつながっているからだなのと思います。
私たちの命は大きな意味でつながっています。大自然とも、電車で偶然隣り合っている人とも。そうであるからこそ、私たちが孤独を感じたり孤立することで正常な気の流れは停滞し、知らず知らずのうちに病んでいくのです。
気が合うから一歩進んで、気が通じ合うということ。私たちが健やかに豊かな心で生きていくためには、どんな場にあってもそのことの大切さを感じる必要があるのではないかと思います。